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輝く男性インタビュー

何度転んでも立ち上がり、そして新しい希望を見つける。人生の荒波を駆け抜けた株式会社ありあけ 藤⽊ 久三会長のインタビューです

ありあけハーバーを手にする藤木久三さん

横浜の土産物として親しまれている洋菓子ありあけハーバーを製造する株式会社ありあけの藤木久三さんにこれまでの人生や、1度は倒産を経験し店頭から姿を消したありあけハーバーの劇的な復活劇をうかがってきました。

藤木さんのお話は、激動の人生のなかで見つけた希望と出会いを大切にすることで紡がれていくドラマでした。

最後は、横浜と奥さまを愛する藤木さんらしい未来のお話で終わります。
ぜひ、お楽しみください。

 

聞き手:たいせつじかん編集部

 

■幼少期の経験が人生の根っこ

幼少期の経験を話す藤木さん 

-藤木さんの幼少期のお話からお聞かせいただきたいです。

藤木さん:私は、福井県の片田舎で7人兄弟の3男坊として生まれました。とにかく貧乏で極貧という言葉がしっくりくるような生活でしたね。

教科書も買えず、遠足にも行けないような家でしたね。

さらに、私は昭和16年の生まれでしたので物心がついてきたころは戦中で、母が戦争体験から精神の病気にかかってしまったこともあり、母親の愛情を受けられずそのあとは母性愛を求めるようなことも多い幼少期であったように思います。

-とても大変な幼少期を過ごされたんですね。しかし、そこから這い上がってこられるわけですが何がきっかけだったのですか?

藤木さん:小学5年生のときに、学校の先生から野球を教えてもらいいっきに夢中になりました。とにかく、極貧の生活から抜け出すためにプロ野球選手をめざし、一生懸命に練習しました。

その結果として、18歳で日本コロンビアという野球の社会人野球チームに入団することになり、上京しました。横浜と出会ったきっかけもこのタイミングですね。

当時は、ノンプロと呼ばれる社会人野球が華やかな時代でした。

-なるほど。貧しさから抜け出したいという思いが大きな原動力になったわけですね。

藤木さん:良く言えばそうなりますね。貧乏は嫌だ、とにかく金もちになりたいと強く願っていましたし、そのために一直線に行動するという感じでした。

今思うと、幼少期の経験が私の根っこにあることは間違いありません。

 

■人生の成功をめざした試行錯誤の連続

-社会人野球チームに選手として入団されてからはいかがでしたか?

藤木さん:日本コロンビアというチームは強豪でしたので、有名大学から有力選手が毎年のように入団してくるので、高卒ルーキーだった私は補欠である期間が長く続きました。

結果として、4年後には準レギュラーになり、選手として10年間在籍しました。そのなかで高卒選手としてはじめてキャプテンを任せてもらったことは今でも私のなかで大きな誇りになっていますね。

そのあとは、レコード会社であった日本コロンビアの社員として働き始めます。在籍していた歌手と全国津々浦々のキャバレーなどをいっしょにまわり、サイン会や即席コンサートなどをする仕事でした。

しかし、仕事内容は、どこまでいっても歌手を引き立たせる太鼓もちの役回りですし、このまま在籍していても高卒の私が出世して偉くなっていく選択肢が少ないように感じていました。 

-お金もちになりたいという思いはまだまだおもちだったんですね。

藤木さん:そうですね(笑)。そう考えていると自分で商売する以外に人生の成功はつかめないのかもしれないと考えるようになりました。

当時、東京の青山にDon-Qという焼きたてのフランスパンと洋菓子を売っている超人気店がありました。ここだと思い、日本コロンビアを退職し、そこの店に潜り込んで働き始めました。

-独立を前提に潜入入社という感じですか(笑)?

藤木さん:そうですね。あとは、職人のヘッドハンティングですよね。私がどれだけビジネスのしくみを理解しても、実際に商品を作れなければいけませんからね。

そして、日本コロンビア退職から約3年で、仲良くなった職人を引き抜いて焼きたてパンを提供するお店で独立しました。

-焼きたてパンにこだわった理由はあったのですか?

藤木さん:理由はふたつで、お金がありませんでしたから日銭を稼ぐことができる商売であることと、当時のパンは大きな工場で作られたパンが店頭で売られるということが主流でした。しかしアメリカでは、店頭で焼いて提供する「焼きたてパン」が流行っているということを知っていたので、この流れが日本に来るだろうと考えて焼きたてパン屋がいいなと思いました。

-そのお店の売上は順調に伸びていったのですか?

藤木さん:いや、うまくいきませんでした。結局、1年半で撤退となりました。

-そう簡単にはいかないのですね。

藤木さん:そうですね。当時はとくに妻に苦労を掛けました。長男が生まれたタイミングと重なったのですが、毎朝4時から働き家に帰る時間が23時という感じでしたが、妻も子どもを連れて手伝ってくれました。

最後の方は、お店の近くに、トイレと台所が共同の4畳半のアパートを借りて、私と妻と子どもと職人の4人で寝泊まりしました。妻にとっては非常に耐えがたいことであったと思いますが、泣き言ひとつ言わずに支えてくれました。

このことから始まり妻にはこの先もなんども救われることなります。

-最初の独立がうまくいかなかったのにどうやって再度身を立てていくことになるのですか?

 

藤木さん:お店をたたむタイミングで大手商社がアメリカから焼き立てパンのチェーン店をもってきて事業部を作ることになり、その会社にいた先輩に誘われたのでそこでお世話になることにしました。

その2年後に、その事業部を閉鎖するというので誘ってくれた先輩と共同出資という形でその事業部を譲り受けて再度独立を果たしました。

今では、焼き立てパンを提供するお店はたくさんありますから、先見の明があったというか運がよかったと思いますね。

-大手商社の事業部であったほどですからある程度の投資がされた状態の事業を譲り受けられ、そこからいっきに事業が拡大していくということですか?

藤木さん:そうなんですよね。当時はすでに5店舗ある状態でしたが、そこから時代の流れをみて、ベイクオフという焼成する前の状態で生地を冷凍したものをお店に運び、プロのパン職人でなくても、お店で生地を解凍して成型し、発酵して焼き上げることで焼き立てパンを提供できるしくみの導入を決定しました。

そのために、横浜の都筑区にセントラル工場を作りまして、そこから事業がうまく拡大していくようになりました。

自社店舗や、フランチャイズ契約していた店舗だけでなく、大手スーパーにも卸を開始し、17年連続増収増益となりました。

-めざしていた人生の成功を手にされたんですね!

藤木さん:そうだったのだと思いますが、そのいっぽうで私は傲慢になっていて、さらに共同経営者とのいざこざがあり、共同経営権を失い挫折します。そんなころに、息子が亡くなったんです。このことが私にとって大きな転換ポイントでした。

 

■子どもの死をきっかけに向き合うこれまでの人生

-息子さんが亡くなられた理由はなんだったのですか?

藤木さん:交通事故でした。当時のことは記憶が曖昧で葬儀のことなどはほとんど覚えていません。

-息子さんを亡くす経験というのはそれだけ耐えがたいことだということですよね。しかし、その経験から立ち直られたきっかけは何だったのですか?

藤木さん:福井県の永平寺に座禅を組みに行きました。そのあと、何もわからないうちに自殺の名所である東尋坊に立っていました。その断崖に立ち突風に吹かれたときに、病院の冷暗室で妻が憔悴しきった私にかけた「お父さんがんばってね」という声が聞こえたのです。

それではっと、我に返りました。まだ、妻と娘、会社の従業員がいますからね。ここからもう1度やり直そうと決心して帰ってきました。

-そのあとは、藤木さんの気持ちが大きく変わったのでしょうか?

藤木さん:そうですね。変わらざるを得ない状況だったんだと思いますね。

それまでは、とにかく金もちになりたいとがむしゃらに働いてきて、郊外に庭つきの一軒家をもつという妻との約束を果たし、会社も大きくなりましたが、そのいっぽうで傲慢になっていたんですね。

そんな私のふるまいを見直すきっかけになったのは、息子の事故後に参加したイエローハット社の創業者である鍵山さんの講演会でのことでした。

そこで「傲慢な社長が傲慢さを捨てられる唯一の方法はトイレ掃除をすることです」と聞き、藁にもすがる思いで次の日から私がトイレ掃除を始めるわけです。そこからが大変なんです(笑)。

今まで9時過ぎに出社していた社長が、8時前からトイレ掃除を始めるわけですから「そんなことはやらないでください、私たちでやりますから」と役員はあたふたしますよね。

そんな役員には「いや、そうじゃないんだと。私自身が人の役に立つ気づきの高い人間になるため生き方を見直さなければいけないんだ」と伝え、それ以降トイレ掃除を続けました。

-社長が変わったことで、社員のみなさんも非常に驚かれたのでしょうね。

藤木さん:それはそうですよね。それまでの私は社員に対して、叱咤激励のつもりでありましたが感情をむき出しにして話をしていましたから、それが理由でやめていく社員もいたわけです。

じゃあ、なんでこんな社長のもとでも社員が残り、会社が大きくなっていたのかということなのですが、じつはそれも妻のおかげでした。

私が、叱咤激励をした社員に対して「社長はあなたに期待しているからこその言葉なのよ」とフォローしてまわってくれていたのです。

実際に、幹部社員から「私たちは社長についてきたわけではないんです、社長の奥さまについてきたんです」と言われたくらいでしたからね(笑)。

しかし、トイレ掃除を始めたことは今から考えても本当に良かったと思っています。私が変わり、幹部社員も変わり、社員も変わり、会社もどんどん良い方に変わっていきました。

 

■ありあけハーバーの再生を自分の再生と重ねる。

-では、ありあけハーバー復活を手がけられたお話についてお聞かせください。

藤木さん:ありあけハーバーのメーカーであった有明製菓が倒産したタイミングで、有明製菓の役員の方に、ありあけハーバーを私の工場で作ってもらえないかと打診がありました。

販売先の開拓は自分たちでできるが製造ができないということでした。

そのことがきっかけで、私たちがありあけのブランドを買い取り、2001年から「ハーバー復活実行委員会」を立ち上げて再販売開始に向けて動き出したんです。

私自身も共同経営の失敗、息子の死があり自分の人生の復活とありあけハーバーの復活を重ね合わせて考えることができて、やる価値があるなと思いましたし、横浜の多くの企業さんから強い要望がありましたので挑戦してみようと決心しました。

それに、この活動には多くのボランティアさんが参加してくれたことも本当にうれしかったですし、ありあけハーバーが横浜の人たちにとってどれほど大切なものであったのかを実感しましたね。

-ありあけハーバーの復活劇をスタートしてみていかがでしたか?

藤木さん:ブランドがあるから販売先はすぐに見つかるだろうと考えていましたが、そうではありませんでしたね。

「倒産した会社の商品など縁起が悪い、取り扱いはしない」と言われました。どこに行っても同じようで困っていたところ、伊勢佐木町にあった松坂屋さんが1週間の催事コーナーを設けてくれることなったんです。

ここからは私も店先に立って、タスキをかけて「ありあけハーバーが復活しました、よろしくお願いします!」とチラシ配りをしました。

そこでお客さまの女性の方が私の手をもって涙を流しながら「私が病気になって入院しているときに、母親からこのお菓子を食べると治るから」と、その母親が亡くなり、ハーバーまで姿がなくなりがっかりしていたが、復活してうれしいと話をされました。

私は今までどうすれば金もちになれるかを考えて事業を行ってきましたが、お菓子には人を感動させる、人に愛と思いやりを伝える役割があるんだと初めて気づいたんです。

それで、会社の理念を「我が社は菓子製造企業ではなく感動製造企業である」とかかげるようにしました。

さらに、このイベントにマスコミの方も多く来ていただき、「ありあけハーバー復活」がニュースに大々的に流れていきましたので本当にうれしかったです。

-そこから、ありあけハーバー復活と藤木さんの感動製造企業の経営者としてのリスタートが始まるんですね。

藤木さん:そうですね。ありあけハーバーの方でいうと、横浜各所に復活のご報告と宣伝のお願いをしてまわりました。

本当に横浜の企業や地元の人たちが助けてくれましたよ。

そして、もともとの私の会社の方では、感動創造企業としての新しいことへの挑戦としてコンビニエンスストアへのケーキの卸を始めました。

ケーキは、駅前のケーキ店で買う時代から成長を続けるコンビニエンスストアで1個から買える時代になり、そのニーズは強いはずだと読みました。

これが思いのほかヒットしたのでより大きく成長しました。

-なるほど。両方ともが相乗効果でうまく大きくなっていったわけですね。

藤木さん:そうですね。そして、もともとの会社はほかの企業に株式譲渡をして、今ではありあけハーバーの会社である株式会社ありあけの経営だけに専念しております。

本当はありあけハーバーも含めてお譲りするというお話だったのですが、感動創造業は地域と対面販売が条件との考えが強くあり、なによりも横浜は私と妻を出会わせてくれた場所であります。ですから、横浜や横浜の人たち、妻への恩返しの思いもあり、ありあけハーバーは残してこのあとも娘婿、孫へと継ぎ永続企業の助けをしたいと思っています。

-横浜は藤木さんにとってとても大切な場所なんですね。

藤木さん:18歳で地元を離れたときから、横浜を中心として仕事もプライベートも過ごしてきました。数えるともう60年以上になりますから、長い付き合いです(笑)。

そして、自分のなかで決定的な思い出としてあるのものが、妻と最初にデートしたのが山下公園であり、山手の港の見える丘公園なのですね。今でも忘れられないわけです。

-藤木さんの人生のなかで奥さまの存在は大きいものなんですね。

藤木さん:妻のおかけでここまで来ることができましたから、言葉では言い表せないほどの感謝があります。

そんな妻も今は半身不随の病気と闘っているので、次は私が妻を支える番だと思っています。

今まで夫婦喧嘩を1度もしたことがないんです。短気で口の悪い私を妻は全部受け止めてくれたからうまくできたわけです。それに対する感謝を最後までしっかりと表していこうと思っています。

-藤木さんの波乱万丈の人生を聞いたあとに奥さまへの気持ちをお聞きするとグッときますね。
では、これから先にお考えになっていることをお聞かせください。 

藤木さん:妻は花が大好きなので、横浜市の花であり、日本発祥の地が横浜である薔薇が多く見られる港の見える丘公園の近くに引っ越すことにしました。

妻と娘夫婦、孫ふたりの家族いっしょに大好きな横浜の港の近くで薔薇に囲まれた日々を過ごせればと考えています。

-すてきすぎます。もう言葉がありませんね。今日はありがとうございました。

 

編集部のひとこと

ライター

せいくん

貧しい幼少期の経験からお金もちになりたいという強い思いを原動力に大きな会社を築かれた藤木さん。その裏では、つらく悲しいできごとをたくさん乗り越えられてきました。

そんな藤木さんが人生を振り返られて感じる奥さまへの感謝と愛情は、私たちにもたくさんの気づきがあるお話だと思いました。

近くにいて苦難をともにしてくれる人を大切にする気持ちは常にもち続けられないかもしれませんが折々で認識を新たにする機会をもち、今あることに感謝ができるようになりたいと思いました。

株式会社ありあけは社会的活動もされており、藤木さんは横浜市内最大規模の清掃ボランティア団体である「NPO法人 美しい港町横濱をつくる会」の設立にもかかわられています。

さまざまな気づきを得られる清掃活動に参加してみるのもいいですね。

編集部メンバー

編集長
かなさん

ふたりの子どもがいるワーママ。お酒が好き。とにかく声が大きい。

ライター
せいくん

家事全般、特に料理が得意な新人ライター。気も声も小さい。

ライター
ゆめちゃん

好奇心旺盛。食べ歩きや女子会が大好き。いつもTシャツ。

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