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輝く男性インタビュー

小田原宿として栄えたこの町に誇りをもち、さらなる活性化をはかる!小田原市かまぼこ通り活性化協議会の元会長・田代守孝さんインタビュー

すてきな笑顔で迎えてくれた田代守孝さん

参勤交代や伊勢参りなどで東西を歩いて行き交う時代に宿場町として栄えた小田原宿。

そのなかで自然と培われていったおもてなし文化を受け継ぐように、鱗吉8代目の田代さんは私たちをもてなすかのようにインタビューに答えてくださいました。

想像することは誰にでもできますが、それを行動に移せるかどうかは容易ではありません。

本当にそれしちゃったの?と言ってしまいそうになるくらい、田代さんの考えていらっしゃることや行動力に何度もおどろかされるインタビューとなりました。ぜひ、お楽しみください。

 

聞き手:たいせつじかん編集部

 

■小田原宿としてもにぎわった町

かまぼこ通りエリアの歴史を話す田代さん 

-はじめに、鱗吉がかまぼこづくりを始めた経緯や「かまぼこ通り」と呼ばれるこのエリアの歴史について教えてください!

田代さん:鱗吉の創業は江戸時代の天明元年(1781年)になります。このあたりは小田原宿と呼ばれていて、宿場機能をもつ町として非常に盛んでした。

たった1日では箱根を越えることができなかったので、箱根をひかえる場として小田原宿が栄えたんです。

山中には山賊がいたとされる時代ですから、夜に移動することはできませんでした。

-そうすると、このまま行くと夜になるという場合は泊まらざるを得なかったわけですね。

田代さん:そういうことです。

そして、この小田原宿から60mほどのところには相模湾があり、その相模湾は1,400種類以上の魚がとれる日本の3大深海と呼ばれていました。

とくに鰤漁が盛んで、鰤御殿が並ぶ町でもありました。ここに市場があったので、魚をなりわいとする方やそれをとりまく職人さんたちがいたんです。当家もその当時は魚商人でした。

-なるほど、この町は魚が中心で作られていったんですね。では、そこからどのようにしてかまぼこづくりをすることになったのですか?

田代さん:市場からは鰤をメインとする魚がたくさん揚げられて、築地や横浜の市場に運ばれていたわけですが、それでも余った魚をどうするか?となったときに、干物やかまぼこにする加工技術が発達していったことが背景にあります。

山を越えるためには保存がきく食料が必要でしたので、そういった技術がより発達していったんだと思います。

そういう経緯から私たちもかまぼこづくりを始めたわけですが、この町は文化としてたくさんの方々をもてなし続けてきたわけですから、おいしい食べ物やご当地の食べ物の名残が今でもあるエリアなんです。

 

■「かまぼこ通り」の知名度が逆転する

-全国ではどのくらいの数のかまぼこ会社があるのですか?

田代さん:私が鱗吉に入ったときで3,000社くらいあったと思います。そして各地域ごとにかまぼこ組合という業界の団体があるんですが、私も「かまぼこ通り活性化協議会」という組織を立ち上げました。

-その組織を立ち上げた理由はなんですか?

田代さん:これまで小田原宿や鰤漁などで栄えてきたわけですが、原料である魚が近海でとりづらくなっていくなかで、未来の子どもたちにこの生業文化や文明、歴史を残していくことはむずかしくなるだろうと考えました。

2006年ごろにこの先20年後はどうなるんだろうと考え始めて、それからたくさん悩みました。その当時はかまぼこ通りとも呼んでいませんでしたから。

-そうだったんですか!?

田代さん:今でこそ浸透してきていると思いますが、2011年ごろに「かまぼこ通り」という言葉に対しての認識レベルアンケートを取ったんですが、小田原市民の7〜8割の方は知らないという結果でした。

-えっ、そんなに知らない方が多かったんですか?意外な結果におどろきました。

田代さん:そうです。けれどそれが現実でした。だから、この町やかまぼこ通りを再度活性化させるために組織を作り、それから2015年くらいに再度アンケートをとったら知らない方は2割程度と結果が逆転しました。

-知っている人が多くなったんですね!何をされたのですか?

田代さん:私たちだけではなく、このかまぼこ通りには150年以上の歴史あるかまぼこ店があって、こんなすてきな町があることに、まずは自分たちが誇りをもとうと意識を変えました。

全国を歩き回って小田原以外の町を知れば知るほど、小田原の魅力に気づかされました。海も山も川もあって食べ物もおいしいし、インフラも整っていて、さらにお城や歴史もある。

こんなすばらしい町であることに自分たちが誇りをもち、もっとたくさんの人たちに知ってもらうためにたくさんイベントを仕掛けてきたなかで、ギネス記録に挑戦した100mかまぼこがありました。

-100mのかまぼこですか?よくそんなことを思いつきましたね!(笑)

田代さん:そうです、100mです。自分でも何をしているんだろうと思いましたね(笑)。

けれど、この100mのかまぼこを作るためにたくさんの仲間や約3,000人のボランティアの方たちが手を貸してくれて、このかまぼこ通りに作ることができました。そういうイベントを企画して実行する、を繰り返してきたことが認知度が逆転するひとつの要因になったと思っています。

地道にこつこつと動いたことが結果につながったんですね!けれど、100mのかまぼこは今でも想像がつきません(笑)。

 

■「かまぼこ通り」発展のために

次世代への継承をはかる

-2006年ごろに20年先を考えて、その20年先まであと5年ほどになりました。これから先はどういうビジョンが見えていますか?

田代さん:これまでの経験のなかで感じたことは、これから先の時代を歩んでいくためには自分で道を切り拓いていかないといけないということです。

そのためには若手が活躍できる場所を与え続けていかなければならなくて、イコール僕がトップに居続けてはならないとも思っているんです。

これまでかまぼこ通り活性化協議会の会長を務めていましたが、じつはそれも今年の3月31日に別の人間に会長を譲りました。もちろんフォローはしていきます。

-これから未来を作っていく方たちに少しずつバトンタッチされているんですね。

田代さん:そうですね。だから私は、そういう若者たちが活躍できる場を作り続けないといけないですが、なによりこの町をにぎやかにしたいんです。

あちこちで聞こえるトンカチの音だとか魚を焼くにおいだとか、それぞれの生業が作り出す空気感、生活の音、みたいなもので活気があふれる町にしていきたいんです。

-なんだかわかる気がします。

田代さん:それが私自身がやり続ける理由というか。それを実現するために動き続けて託していく。

-最後の質問ですが、田代さんがやり切ったと思えるときは、どのようなときだとお考えですか?

田代さん:心から任せられる事業継承がスムーズにできたときですかね。

-いわば田代守孝イズムが継承されるときですか?

田代さん:そうですね。私と同じような意識をもち、危機感を感じながら行動してくれる者に継承できればやり切ったと思えるかもしれません。

私が思い描いているビジョンを5つの分野にわけて、それぞれを託すことができればと思っているので、5人を育て、その5人がまたこの地を盛り上げていってくれたらうれしいですね。

-きっと田代さんが思い描いているビジョンはとてつもなく壮大なことなのだろうと思いますが、必ず実現されると信じています。今日はありがとうございました。

 

編集部のひとこと

ライター

ゆめちゃん

何かを変えたいと思ってもそれを行動に移し実現することは容易ではなく、当事者にしかわからないことや悩みが多々あることでしょう。

田代さんは勇気をもって行動したことにより、今があると話してくださいました。インタビュー中も通りがかった方から声をかけられるなど、田代さんの思いに共感している方が多く、地域の方からも慕われているのだろうと感じました

そして、田代さんのお話からとくに感じたことは田代さん自身本当にこの町が好きなんだということです。100mのかまぼこづくりも、この町が好きだからこそ実現できたのではないでしょうか?

田代さんの思い描く未来に今後も目が離せません!

編集部メンバー

編集長
かなさん

ふたりの子どもがいるワーママ。お酒が好き。とにかく声が大きい。

ライター
せいくん

家事全般、特に料理が得意な新人ライター。気も声も小さい。

ライター
ゆめちゃん

好奇心旺盛。食べ歩きや女子会が大好き。いつもTシャツ。

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