輝く男性インタビュー
- 自分に嘘をついて生きることをやめると決意し、39歳でプロサッカー選手に再チャレンジしたY.S.C.C.横浜の安彦考真(あびこたかまさ)選手インタビュー
Y.S.C.C.横浜の安彦考真さん
幼少期からサッカーを続けてきた安彦さんは、19歳のころにブラジルでプロ契約をしたものの大けがによりまともにサッカーができずに帰国。
帰国後は、日本でもサッカーを続けておられましたが、1度はプレーヤーとして現役引退されました。
しかし、これまでの自分の後悔を取り戻すために39歳から再度プロサッカー選手をめざし、現在はプロサッカーJ3リーグのY.S.C.C.横浜に所属されています。
42歳を迎えた安彦さんは、すでに今シーズンかぎりでの現役引退を発表しておられますが、J3最年長ゴールをめざし日々奮闘されています。
そして2020年12月18日には、安彦さん初の書籍が発売されます!
※ページ下部に書籍のご紹介をしております。
ぜひお楽しみください!
聞き手:たいせつじかん編集部
■高校生でブラジル留学を経験する
新聞配達でお金を貯めてブラジル留学をする
-現在、Y.S.C.C.横浜でプレーされている安彦さんですが、そこに至るまでの経緯を教えてください!
安彦さん:幼少期からサッカーをしていて、ずっとカズさん(=三浦知良選手)に憧れていました。そして、中学卒業と同時にブラジルへサッカー留学に行こうと決めていました。
もうブラジルに行く気満々だったので、留学会社から資料を取り寄せて母親に見せたら、何を考えてるの!高校を卒業してから言いなさい!と、ものすごく反対されました。
僕自身はどうしても行きたかったんですが、母親の言うことに納得する部分もあってそのタイミングでの留学は諦めました。
-では、安彦さんは中学を卒業されてブラジルには行かずに高校へ進学されたんですね。
安彦さん:そうですね。行きたい高校があったので、サッカー推薦のセレクションを受けて合格はしたんですが勉強の方が足りてなくて、その高校には行けませんでした。
結局地元の高校に入学しサッカー部に入部していたんですが、一般的な不良と言われるような先輩がたくさんいる部活でしたので、入部早々からいろいろな面で衝撃的でしたね(笑)。
-今はそんなことはないんだろうと思いますが、当時はかなり荒れていたんですね。
安彦さん:本当にすごかったですよ(笑)。このままじゃまずいと思って、じつは途中でサッカー部を辞めているんです。
そのときの担任の先生が陸上部の顧問をやっていて、40代で日本記録を持っている方だったので、先生と話して足を速くしたいと思って陸上部に入部することにしましたね。
そのあともサッカー部の友人とはつきあいを続けていたのですが、ある友人が2年の夏休みにブラジルにサッカー留学をしに行ったことを聞いたんです。
その瞬間に、自分のなかで封印していた思いがいっきに爆発して、やっぱりブラジルに行きたいとすぐに両親に思いを伝えました。
-1度は反対されて諦めたとおっしゃっていましたが、本心では諦めきれていないままずっと過ごされていたんですね。
安彦さん:ブラジル留学をすぐ近くで体現している友人がいたので、さらに思いは強くなりました。
-ご両親からはどういう回答があったのですか?
安彦さん:自分でお金を貯めて行くなら、という条件付きで了承を得られました。だから、半年間くらい新聞配達を続けて30万円を貯めて、友人にブラジルのことを聞き、3年生の夏にやっとブラジル留学に行くことができました。
-念願のブラジル留学が叶ったんですね。どのくらいの期間を過ごされていたのですか?
安彦さん:当初の予定では1カ月だったんですが、サッカーの調子も良く、僕と同じポジションの選手がけがをしたこともあり、監督からもう2カ月残れるか?と聞かれたので、両親にも学校にも聞かずに残りますと伝えました。
さすがに1カ月で帰る予定だったのに2カ月も3カ月も帰ってこなかったら両親も心配しますし、事情を伝えたら両親が学校に呼び出されちゃったこともあったようです。
-日本では、ちょっと話が違うぞ!ってなっていたわけですね(笑)。
安彦さん:そうですね(笑)。けれど、校長先生がとても理解のある方で、こんなチャンスめったにないだろうからと背中を押してくれて、2カ月延長することになりました。
とはいいながらも少しでも長く滞在を続けようと考えていましたが、それでは退学処分もありえるということで、結果的に合計3カ月間ブラジルに滞在しました。
-帰国後はどうされたんですか?
安彦さん:日本に帰ってきて行きたい大学があったので受験しました。ブラジル州選手権出場という肩書きもあったし、スポーツ推薦ももらえていたので、勝手に受かるだろうと思っていたんですけど、結果は不合格でした。きっと慢心していたんでしょうね。
■ブラジルでプロ契約をした翌日に前十字靭帯断裂の大けがをする
入念にコンディショニングトレーニングをする
-お話をお聞きしていると挫折を経験することが多かったんですね。
安彦さん:行きたい学校にはなかなか行けませんでしたね。でも、両親もうすうす気づいていたと思いますが、自分の気持ちのどこかにまたブラジルに行きたいという思いもあったので、再度2年間ブラジルに行きました。
そこで所属していたチームでプロ契約を結ぶことができたんですが、契約を結んだ翌日に前十字靭帯を切る大けがをしてしまって、それからはまともにプレーができませんでしたね。
このくらいの大けがだと普通なら2週間くらい入院すると思うんですけど、ブラジルでは手術をした翌日に退院で、そのままリハビリに連れて行かれました。あれは大変でしたね。
-想像するだけでも過酷さが伝わってきます。では、これまで2回ブラジルへ行かれてサッカーの面や生活面で文化の違いやさまざまな経験をされたと思うのですが、まずはサッカーの面で感じた違いを教えてください!
安彦さん:ハングリー精神ですね。俗にいう「ハングリー精神」というものが何かをきちんと理解していませんでしたが、それは家族の今からその先の将来まですべてを支えるためにサッカーをしているということでした。
当時の日本では大学に行くことがひとつの指標になっていたと思いますが、ブラジルでは高校年代から将来の生活が指標になっているんですね。
サッカーの本場と言われるブラジルでは、サッカーが安定した仕事であり稼げる職業なので、それをわざわざお金を払って留学にきている日本人にポジションを奪われるわけにはいかないんですよ。
彼らにとってポジションを奪われるということは、自分がサッカーで生活していくことができないと公言しているようなものなので、当たり前のようにパスはこないし、容赦なく削られましたね。
サッカーに対する考え方の根本の部分がまったく違いました。
-なるほど。ブラジルでのサッカーは、背負っているものの違いが顕著に表れやすかったんですね。
安彦さん:それはすごく感じましたね。
ストリートでも裸足でサッカーをしているし、ブラジル人は全員うまいというイメージを持つかもしれないですが、全員が全員テクニックがあるわけではないんです。もちろん全体的にレベルは高いですけどね。
ただ役割が明確で、個性を大事にしてそれぞれのポジションにあった生き方をしているんです。
-すべてを満遍なくこなすのではなく、個性に特化していてそのレベルがとても高いんですね。そして、それぞれの責任領域が明確にされているので評価もつけやすいですよね。
安彦さん:そうですね。だから僕もポジションを勝ち取るために自分の武器でもある両足を使えることをアピールしていきました。
当時のブラジル人は両足をうまく使える選手が少なかったので、そこも評価されプロ契約に近づいたと思っています。
-そこで生きていくために何をしなければいけないのかを考えて行動することは、スポーツ以外でも必要な要素ですよね。では次に、生活面での違いを教えてください。
安彦さん:ブラジルではチームの選手寮に住んでいたんですけど、泥棒に入られて盗まれたバッグが路上で売られていたりとか、寮母さんが作ってくれるごはんのクオリティがオフシーズンになったらがらりと変わったりとかありましたね。
-寮母さんが手を抜いちゃうんですか?
安彦さん:オフシーズンになっても僕たちは寮に住んでいるんですが、ブラジル人選手は実家に帰るので、その選手たちがいなくなった途端にごはんはカピカピだし、サラダも肉もないし、あからさまに手を抜くんです(笑)。
ブラジルでの苦い経験も今では笑い話になっている
-寮母さんのモチベーションも下がってしまうんですね(笑)。ブラジルで生活してこれは鍛えられたなと思うことはありましたか?
安彦さん:適応能力って、あれは嫌だとかいうこととは別にそうせざるを得ない状況があって、たとえばカピカピのごはんを食べるしかない状況ですよね。そこで生きていくためには食べる以外に方法がないので、「そうせざるを得ない」に対しての適応能力は養われたと思います。
今、僕自身の将来についてそこまで不安をいだいていないのは、どんな状況でも生きていくことはできると思っているためでしょうね。
仕事がなくなっても新聞配達をすればいいし、カピカピのごはんでも生きていけたし、あのころに戻りたくないというよりかは、いつ同じ状況に戻っても俺は生きていける!と心のどこかで思っていますね。
-私の感覚では過酷な環境下に身を置かれていたんだなと思うのですが、日本に帰りたいなと思うことはありませんでしたか?
安彦さん:この環境が辛くて帰りたいと思うことはありませんでしたね。
ブラジル人の友人が飼っている犬に下唇をかまれて十針縫ったことがあったんですけど、すぐにバイクに乗せてもらって病院に連れて行ってもらったんですね。
病院に行くときのバイクがとくかく遅くて、まわりで走っている子どもたちの方が速いくらいだったんですよ。その子たちがこっちこっちって逆に先導してくれてるんですよね。そのときは本当に恥ずかしいし嫌だなって思ったのですが、そういう経験が帰りたいには繋がらなかったですね(笑)。
-仮に帰りたい気持ちがあったとしても、それよりブラジルでサッカーを続けたい気持ちの方が上回っていたんでしょうね。
安彦さん:やっぱりブラジルで成功したいと思っていましたし、カズさんのような凱旋帰国をするという目標に向かっていた最中だったので、帰るときは何かを成し遂げてからと思っていましたね。
-でも、前十字靭帯断裂という大けがでまともにサッカーができなかったんですよね。
安彦さん:そうですね。ビザも切れて日本に帰国せざるを得なくていったん帰国しましたが、それからもリハビリ生活は続いていました。
復帰したらまたブラジルに戻ろうと思ったんですけど、ビザの取得が厳しくなったこともあり、それ以降はブラジルに行くことはありませんでした。
■サッカーが嫌いになった
-日本に帰国したときは21歳ですよね。日本でプロサッカー選手をめざす年齢で考えてもまだ充分若いですし、けがから復帰したら日本でプロサッカー選手をめざそうと考えていたのですか?
安彦さん:そう考えていました。ですから、元日本代表監督のジーコさんの兄であるエドゥ-さんが指導している専門学校があったので、そこにコーチ兼選手兼通訳として入りました。
チームが三重県に拠点を移すまでの約4年間在籍していました。
その間の21〜22歳のころにプロテストを受けたんですけど、何かにびびってしまって自分のプレーがまったく通用しなかったんです。
けれど、両親やまわりの人たちには、「いいプレーができたよ」とか「俺は良かったけど、チームの構想とは合わなかった」とか、どうしようもない言い訳を繰り返していたんです。
すると、まわりの人は共感してくれるし僕も言い訳を続けるんですけど、自分ではそうじゃないって理解しているんですよね。
そのときくらいから、自分のなかで小さな嘘の重ね着が始まりました。
-ブラジル留学の経験もあったからこそ期待にこたえたいという思いもあって、余計にまわりには言いづらかったんでしょうね。
安彦さん:自分に正直になれない、自分の弱さもさらけ出せない人間がプロの世界で生きていけるわけがなくて、もうプロをめざすことをやめようとしたんですが、めざしているものをどうやってやめていいのかが分かりませんでした。
それで24歳のころに、大宮アルディージャから通訳のオファーをいただいたので、それがきっかけでプロサッカー選手をめざすことをやめました。
-複雑な感情だったんですね。では、24歳のころに通訳になってプレーヤー側からスタッフ側に変わられたんですね。通訳はおもにポルトガル語だったんですか?
安彦さん:そうですね。チームにブラジル人が3人いたので、その選手たちの通訳ですね。
-通訳は翻訳とは違って伝えたいことをニュアンスも含めてきちんと伝えることが重要ですよね。
安彦さん:たとえば日本人とブラジル人とでは文化が違うわけで、日本人の当たり前がブラジル人の当たり前ではないんですよね。
時間にきっちりしているとか、わびさびとか、言葉にないことをどうやって彼らに伝えられるかが通訳のいちばんの醍醐味だと思っていて、そこはかなり工夫していましたね。
-通訳をするうえで気をつけていたことはありますか?
安彦さん:言った言わないになることがいちばん良くないことなので、基本的には直訳しないことですね。そして、映像共有をするという方法をとりましたね。
たとえばコーチと選手とでそもそもイメージしていることに相違があってはいけないので、まず僕が言葉を映像化する、そしてその映像を訳すというふうにワンクッションはさむことで、ずれが少なく共有することができていました。
今、自分にあるコミュニケーション能力はこの通訳での経験が生かされていると思っていて、みんなを納得して同じ方向に向かわせるための伝え方が得意になったと思っています。
-たしかに文化が違ったとしても見ている映像が同じなら、考えを合わせることができますよね。
安彦さん:言葉だと人それぞれの捉え方がありますが、映像だと大きく違うことはないですし、そこに必要な言葉を選びはさんでいくということが、自分自身が対日本人とのコミュニケーションでもうまくやれていることなのかなと感じています。
通訳では、言葉は違っても意味が合っていれば問題ないわけなので、その人は何に向かって話しているのかを自分のなかで解釈して別の言語で発するという部分はかなり努力しましたね。
-通訳として活動されていた期間はどのくらいだったのですか?
安彦さん:2003年から2005年のまでの3年間ですね。
-では、そのあとはどのような活動をされていたのですか?
安彦さん:北澤豪さんといっしょに7年間くらい仕事をして、組織のマネジメントやスクールの立ち上げに携わり、ダノンネーションズカップ少年サッカー大会を仕切って、2013年に独立して4年間ほどフリーランスで活動していました。
その期間は、現川崎フロンターレの小林悠選手のマネジメントをしたり、麻布大学付属淵野辺高等学校(現名称は麻布大学付属高等学校)のコーチをしたり、スポーツディレクターという立場でイベントの開催や発達障害をかかえる子どもたちのサッカー教室もしたりしていました。
通信の高校と東京ヴェルディを繋いでbiomサッカーコースというものも作ったんですが、そのときの監督がY.S.C.C.横浜現監督のシュタルフ悠紀リヒャルトなんです。
僕はbiomサッカーコース全体のディレクター、彼は監督という役割で、彼とはそこで知り合いました。
-サッカーを軸としてさまざまな活動に取り組まれていたんですね。
安彦さん:そうですね。2013年からもう1度プロをめざすと宣言した2017年まではいろいろと動いていましたね。
■自分がかっこよく生きるためにバッターボックスに立つ!
Y.S.C.C.横浜で41番をつけている
-さまざまな活動をされていて2017年にもう1度プロをめざすと決意されたとのことですが、そこにはどんなきっかけがあったのですか?
安彦さん:フリーランスで活動していた期間、通信の高校に外部講師の立ち位置で不登校、引きこもり、発達障害をかかえる子ども、補導歴がある子どもたちとかかわっていました。
最初の数カ月は彼らもエネルギーがあるのでルールに対して反発してくるんですが、3カ月もするとだんだん落ち着いてきて、あのころに戻りたくない、新しい自分を見つけたい、とすごく積極的になっていったんです。
それくらいから僕の話を素直に受け止めて動いてくれるようになり、どんどん変わろうとしているのがすごく伝わってきて、僕自身も楽しかったんです。
生徒たちには、素振りを10回するよりも、1回でもバッターボックスに立ちなさいと言っていたので、彼らはそれを実践してその経験談を僕に話すようになってきたんです。
僕は過去の経験談を話すばかりで新しい経験をしていないので話すネタが切れると、本を読み漁り、他人の経験を自分の知識として話すようになってくるわけです。
生徒たちには行動力が大事だと言っているのに自分が行動できていないことに対して、違和感を感じ始めてきたときにある生徒が、「アビさん!僕、1,500円の本を買うためにクラウドファンディングをしたけど、300円しか集まらなかった」と言ってきたんです。
それを聞いていたまわりの生徒たちは爆笑しているんですけど、僕は膝から崩れ落ちるような衝撃を受けました。
-1回のバッターボックスに立つという行動を示したんですね。
安彦さん:そうなんです。それから、俺はバッターボックスに立っているのか?という自問自答が始まりましたね。
そのころ当時マネジメントをしていた選手のためにトレーニング施設を探していて、プロ野球選手の岩隈さんのIWAというジムを紹介してもらいました。
自分自身がそのジムの良さをわかっていないと選手にも伝えられないと思って、体験してみたらいい筋肉してますね!って褒められたんで、そこからスイッチが入っちゃって。
15年間くらい自分に嘘をつきながら目の前では子どもたちがいきいきと変わる姿を見てきて、
これまで着飾った嘘が自分のなかでごまかしきれなくなって、これ以上嘘を続けると自分のことが嫌いになると思いました。
だから、人生の後悔を取り返しにいこうと決めて、その瞬間にすべての仕事を辞めて39歳の夏にもう1度プロをめざすことを決意しました。
-現役を引退してからの15年間、そういう気持ちが溜まりに溜まって安彦さんに火をつけたんですね。
安彦さん:少なからず人前に立って話すなら、自分が体験したこと、1次情報を話したいと思っていましたし、それがださくてもかっこ悪くてもいいと思えたのがそれくらいのときでしたね。
かっこつけることに意味はなくて、300円しか集まらなかったけど彼のようにかっこよく生きることに意味があるんだなと実感しました。
だから、恵比寿駅から徒歩2分だった住まいも引っ越し先を決める前に引き払いましたし、今あるものをすべて捨てないとJリーガーにも失礼なので仕事もお金も捨てました。
僕が今自分に素直にいられるのは、覚悟を決めてきたからだと思います。
それにプロになれるなれないのジャッジは僕ではなく相手のジャッジであって、結果はどうあれ、僕はプロをめざすことに挑戦したわけですから、それがすばらしいことだと思えるようになりました。
-確かにそうですね。けれどプロをもう1度めざすと決意したとはいえ、ずっとからだを動かしていたわけではないですよね?まずは何から始められたんですか?
安彦さん:たまにジムに行ったり社会人サッカーで少しからだを動かしたりしているくらいでしたが、まずはFC琉球の社長に入団テストを受けさせてほしいと直談判しましたね。
会話も弾んでいたし感触は悪くないと思っていたんですけど、あとあと聞いたら現場ではふざけるな!と思っていたらしいです(笑)。
テストを受けるために指導していた高校で選手に混ざってトレーニングをしていたんですが、
テスト1週間前くらいにけがをしてしまったので、結局その話はなくなってしまったんですけどね。
そしたら、水戸ホーリーホックからけがが治ったらシーズン頭から練習生で1週間参加してくださいとオファーをもらえて、2018年の1月18日から1週間参加することになりました。
-練習生とはいえ、プロの場に戻ってどうでしたか?
安彦さん:初日から2部練で、さらに午後は1,000m×9本の日だったんです。僕は本当に走るのが苦手で、4本目くらいから決められたタイムで走り切れなくなってしまったんです。
でもこれでリタイアしたら終わりだし、ぜぇぜぇ言いながら走り切りました。
プロになりたかったわけではないと言ったら語弊があるかもしれないけれど、とにかく昔の弱い自分に負けたくなくてプロをめざしたし、これ以上自分に負けるわけにはいかなかったんですよね。
チームからもういらないよと言われてやめるのであればいいですが、自分からは絶対に諦めないし根をあげないと決めて走り続けました。そうしたら、必死になっている僕を見て選手やコーチががんばれ!って、応援してくるようになりましたね。
それを繰り返すにつれてまわりからも評価をされるようになって、1週間だけだったのが、また1週間、さらに1週間というふうに期間が延びるようになりました。
-練習生の期間はどれくらいだったんですか?
安彦さん:プロ契約をもらえるまでは2カ月間くらいでしたかね。1週間の終わりに電話で連絡をもらう状態だったので、正直生きたここちはしませんでしたね(笑)。
-ゴールがどこかわからないなか、全力を出し切り続けることってメンタル的にも相当きついですよね。
安彦さん:半年後も練習生かもしれないし、そもそもプロになれるかもわからないしという状態だったのでメンタル的な辛さは感じましたね。
-お話をお聞きして、プロになりたくて39歳でプロをめざしたわけではなく、プロをめざす自分になりたかったんだというようにおっしゃっていて、本当に素直に話してくださっているんだなと伝わってきました。でも、そう考えると誰にでもチャンスはあるということですね。
安彦さん:常に可能性は50%だと思っています。それはやるか、やらないか。でも、プロになる確率は1〜99%で0%か100%というのはないと思っています。
僕がプロになる確率は1%よりも少なかったかもしれないですが、その1%の確率をどうやったらあげられるかということを徹底的に考えてやってきましたし、僕が挑戦するうえでは必要だったことだと思います。
-やるかやらないかみたいなことは、プロサッカー選手にかぎらずさまざまな場面でも言えることですよね。Y.S.C.C.横浜へは昨年の2019年に移籍してこられたんですね。
安彦さん:そうです。現監督のシュタルフからオファーをもらって入団することになりました。
シュタルフも2019年にY.S.C.C.横浜の監督に就任したばかりだったので、お互いを信頼し合えている僕を誘ってくれたんだと思います。
-監督と選手のあいだに入って架け橋的存在になる選手がいるだけで、プレー面以外でも支えてもらえますもんね。
Y.S.C.C.横浜在籍2年目の今年を現役ラストイヤーだと宣言されていましたよね?
安彦さん:そうですね。今年の初めに決めましたね。
コロナのせいなのかおかげなのかわからないですが、なんとなくのJリーガーが増えたような気がするんです。これは誰かの批判とかではなく、コロナがあるからしかたがないとか、今シーズンの降格はないから来年も契約できるだろうとか思っている選手がいるんじゃないかと思うんです。
たとえそうだとしても、これはファンの方々に失礼だし、そんなことは1mmも思っちゃいけないはずなんですよね。
僕は年俸120円のJリーガーだしこのまま来年も契約しようと思ったらできるかもしれないけど、でもそんな気持ちでやるくらいならやらないほうがいいし、今年をラストイヤーにしようと覚悟を決めました。
-覚悟を決めて残りのプロサッカー選手生活を過ごされているんですね。
安彦さん:僕には来年がないので毎日やりきったのかと自問自答しているんですけど、情けないことに毎日悔いが残ってしまうんです。もっとやれたとか、あそこでもっとからだ張れたなとか。
覚悟を決めたのに悔いが残ることを悔しくも思うのですが、でも覚悟を決めていなかったら毎日悔いがあることすら知らずに生きていたかもしれないですし、悔いを感じられるというのも覚悟を決めたからなんだなと思います。
なので、その日々の瞬間瞬間を本気で駆け抜けてその先に見えた景色をこれから発信していきたいなと思っています。
■100年後から「ありがとう」をもらえる世の中に
100歳になる自分のおばあちゃんに感謝している
-引退後はどんなビジョンを考えられているんですか?
安彦さん:大きくなっちゃうんですが、100年後からありがとうがもらえることを残していきたいと思っています。
今考えているのは選手が引退するしかなくなってセカンドキャリアで苦しむのではなく、次にやりたいことが見つかったからと笑顔の引退ができるようなしくみを促していくことです。
選手自身も勘違いしてしまっていることが多くて、プロサッカー選手って引退した瞬間に無価値になってしまうんです。
しかし、例として10年後に引退すると先に決めてしまえばその10年間で経験したり人脈を作ったり、引退後の準備ができるんです。それにこの期間はいくら失敗したって経験になるだけなので問題ないですよね。
だからといって本業の手を抜くということは絶対にないです。こういうしくみを作っていき、100年後の人たちから感謝してもらえたら最高ですね。
-今まで受けてきた恩を未来に恩返ししていくということなんですね。では、チームの今シーズンの目標と見てほしいところを教えてください!
安彦さん:今年の目標は、チームの順位として1桁順位をめざすことです。
試合を観戦してくださる方に見てほしいところは、理にかなった効果的なポゼッションサッカーと情熱的であるというところを見てもらえるとうれしいです。
-では、最後に今年がラストイヤ-の安彦さんの目標を教えてください!
安彦さん:やっぱりJ3最年長ゴールを決めることですね。Jチームとの練習試合ではゴールを決めて、それが決勝点になり試合に勝つことができたんですけど、練習試合なのにみんながすごく喜んでくれて盛り上がりましたし、チームも期待してくれているんです。
ゴールを決める準備はできている
だから、試合に出てゴールを決められるように毎日準備していきます。
-J3最年長ゴール期待しています!今日はトレーニング後にもかかわらずありがとうございました!
■著書のご紹介
安彦さん著書
『おっさんJリーガーが年俸120円でも最高に幸福なわけ』
『激レアさんを連れてきた。』(テレビ朝日系)出演で話題を呼んだ「おっさんJリーガー」こと安彦考真選手が「Jリーグ挑戦記」と「お金に縛られない幸福論」を語る初の著書。
「プロサッカー選手になる」という若き日の夢を忘れられず、年収1000万円の生活を捨てて39歳で一念発起。クラウドファンディングでトレーニング費用を募って体を鍛え抜き、40歳でJ2クラブと異例の「年俸10円」契約。そしてついに41歳であの神様ジーコが持つJリーグ最年長初出場記録を更新!
なぜ高給をなげうってJリーガーを目指したのか?おっさんルーキーはプロのレベルについていけるのか?そもそも年俸120円でどうやって暮らしてるの!?――
巻末には、人生哲学が滲み出るアビコ語録も多数収録。言い訳ばかりで次の一歩を踏み出せないすべてのビジネスパーソンの背中を押す一冊です。
著者:安彦考真
発行:株式会社小学館
発売日:2020/12/18
出版社:株式会社小学館
サイズ:四六判 256ページ
-気になる方がいらっしゃいましたら、ぜひ1度読んでみてくださいね。ありがとうございました。
編集部のひとこと

ライター
せいくん
39歳でプロサッカー選手をめざし、40歳でプロになった安彦さんの姿は輝いており、練習中も安彦さんの情熱的なプレーがほかの選手にいい影響を与えているに違いないと感じました。
練習風景を見ているときにグラウンドのまわりを走っている外国人の男性から声をかけられ、
「彼(安彦さん)は、私のヒーローなんだ。テレビで彼を見たときにすごく勇気をもらって、私の方が年上だけどまだやろうと思ったんだ。」と、おっしゃっていました。
自分に嘘をつくことをやめ、かっこよく生きていることが、まわりの人の心を動かすことに繋がっている、そう感じた瞬間でした。
安彦さんならJ3最年長ゴールを決めてくれると信じています!
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編集部メンバー
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