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輝く男性インタビュー

横浜の地サイダー「オリツルサイダー」をご存知ですか?横浜でサイダーを作る坪井食品の坪井裕平社長にお話を聞いてきました!

横浜の地サイダー「オリツルサイダー」を作る坪井食品の坪井裕平社長

坪井食品の坪井裕平社長とオリツルサイダー

明治34年から横浜で、生麩やこんにゃく、しらたきなどの製造からスタートした坪井食品がなぜ、サイダーを作るようになったのか?

日本の近代化のあゆみとともに発展してきた炭酸飲料水「サイダー」の歴史をたどるインタビューは、ロマンたっぷり!読み終わったらサイダーが飲みたくなるかもしれません!

そして、さらに大きな未来を思い描く坪井さんのお話をお楽しみください!

 

聞き手:たいせつじかん編集部

 

 

■サイダーは日本の近代化の歴史と並走するように浸透した

坪井食品の代表坪井裕平社長

-こんにゃくなどの製造販売がメインの事業であったにも関わらず、サイダーの販売をするようになった経緯から教えてください。

坪井さんうちは明治34年の創業以来ずっと、“こんにゃく屋”なんですよね。じゃあ、なぜ“こんにゃく屋”がサイダーを作ったのかということですが、こんにゃくとサイダーは作る機械の構造が途中まで同じなんです。

だからうちだけが特別なわけではなく全国の“こんにゃく屋”が、サイダーを作っていたんです。“こんにゃく屋”であれば、とても自然なことだったんですよね。

夏場は、こんにゃくがあまり売れないので夏場をしのぐためにサイダーを作って売っていたというわけです。

-そうなんですね!こんにゃくとサイダーを作る機械が似ているという点があまり想像できませんが、おもしろいお話ですね。

坪井さん:そうですね。全国の“こんにゃく屋”がサイダーを作ったのでいろいろなところが元祖だと言っているんですよね。

ラムネは、大阪市と横浜市が元祖と言っていて、サイダーは神戸市と横浜市が元祖と言っています。

-そもそも、ラムネとサイダーの違いって何なのですか?

坪井さん:中身はいっしょなんですが製法が違うんです。ラムネはビー玉が入っていることで真空状態を作ることができるので殺菌の必要がないのですが、サイダーはびんにふたをしているだけなのでふたとサイダーの間の空気を殺菌しなければいけないということの違いなんですよね。

-中身はいっしょなんですね!別のものだと思い込んでいました。

坪井さん:そういう方って多いと思いますよ!

-横浜も元祖と言っているということはかなり早くからサイダーを作っていたということだと思うのですが、なぜ横浜でサイダーが作られるようになったのかを教えてください。

坪井さん:1863年(文久3年)にイギリス人のノースレー氏が横浜でノースアンドレー商会を開業して、日本初の炭酸飲料を横浜で作ったことがきっかけですね。

そして、そこに勤めていた秋山巳之助氏が1899年(明治32年)に横浜の扇町でサイダー製造の工業化に成功したんです。そのときに、スパークリングワインのシードル(Cidre)をなまらせてサイダーという言葉を作ったんです。この話から考えてもサイダーの発祥の地は横浜だと私は思っていますね(笑)。

-では、そこからどうやって御社がサイダーを作るようになったのかを教えてください。

坪井さん:その秋山さんという人は、とても良い人で自分の工場でいろいろな人にサイダー製造の技術を教えていたらしいんですよね。うちのじいさんは“こんにゃく屋”で夏は仕事が暇になるので秋山さんのところに夏は働きにいって技術を覚えて帰ってきたというわけです。なので、うちがサイダー製造を始めたのが、秋山さんの工業化成功から遅れること5〜6年後である理由は、そういうことなんです。

あと、横浜は日本で初めて近代水道が整備された街なんですね。炭酸飲料を作るにはどうしても水道水が必要なので、どこよりも早く水道水が整備されて、さらに技術も学べたので横浜はうってつけだったんでしょうね。

-なるほど。明治時代の近代化と並走する隠れた物語という感じがして、とてもロマンを感じますね!

坪井さん:そんなきれいな話ではないと思いますけどね(笑)。そのあとは、戦争によって横浜は大空襲で焼け野原になったのでサイダー作りはできなくなったんです。

でも、うちのじいさんが米軍から炭酸発生装置を払い下げてもらってサイダー作りが再開するんですよね。これでじいさんはひと儲けをして、今でも使っているサイダー製造機を買ったんですよね。

-えっ、今でも使っているあの機械ですか?

坪井さん:そうなんですよ。昭和30年ころの機械だと思います。いろいろ修理をしていますが、今でも機械の半分は当時のものですね。

オリツルサイダー作りを支えている現在のサイダー製造機械

昭和30年ころに購入した機械をベースにした現在のサイダー製造機械

-そうなんですね!やっぱりサイダーの歴史は近代化の歴史と並走するんですね。

坪井さん:そうですね。でもね、今では笑い話ですが、米軍からの払い下げの炭酸発生装置で横浜のサイダーは復活しましたが、昭和40年代になるとアメリカメーカーの炭酸飲料が日本に上陸して日本の小規模の炭酸飲料メーカーは駆逐されてしまったんです。結果として、うちもそれから2000年まではサイダー作りをいっさいやめていたんです。

 

■オリツルサイダーの復活は想定外のことだった

坪井食品創業100周年を記念して、復刻版オリツルサイダーを配ったことが復活のきっかけになった。

オリツルサイダーの商品デザインはすべて坪井さんが担当されている 

-なぜオリツルサイダーは復活したのかを教えてください。

坪井さん:坪井食品の創業100周年だった2000年に、お得意様先などに記念品としてオリツルサイダーを作って配ったことがきっかけだったんです。

-記念品ということは、一時的な復活だったということですか?

坪井さん:そうですね。そもそも、東京のサイダー販売店から無地のサイダーを買ってきてそれにオリツルサイダーのパッケージシールを貼って配っていたんですよ。

でもね、配ってみたらみなさんが懐かしいと言って喜んでくれたんですよね。そんなこんなで話があれよあれよと広まって、神奈川新聞にオリツルサイダーが「復活」という記事が載ったことで、一度だけのつもりが復活をすることになったということです。

-じゃあ、完全に想定外だったんですね。

坪井さん:そうなんですよね。さらに、当時は地サイダーブームと重なっていたので、サイダー発祥の横浜の地サイダーということで注目を集めることができました。各地の地サイダーフェアからたくさんお声がかかったので、「じゃあ、もう一回サイダーを作ろうか」ということで、しまい込んでいたじいさんが買った機械をひっぱりだして、生産再開の準備を始めたんです。

-なるほど、では再開後はスタートから好調だったんですね!

坪井さん:そうだったらよかったんですけどね、生産体制がしっかりと整ったころには、地サイダーブームが終わっていたんですよ…もう、うちのサイダーを買いに来る人はいなくなっていましたよね(笑)。

-あー、それは笑いごとではないですよね…

 

■横浜のバーでは横浜の炭酸水を使ったお酒を

横浜の地サイダー「オリツルサイダー」で横浜を盛り上げていく

映画の主人公のような気分だったという坪井さん

-では、生産再開後の地サイダーブームが過ぎたあとをどのように乗り越えたのですか?

坪井さん:横浜は、バーの数が日本一なんですよ。ここに目を付けて、業務用に切り替えました。

-なるほど!バーに炭酸水飲料の提供を始めたんですね。

坪井さん:そうなんです。しかし、この市場は神戸のメーカーが大きなシェアをもっている市場なので、簡単にうちの商品に切り替えてくれと言ってもそうはいかないんです。

-ここでも、なかなか厳しい戦いだったんですね。

坪井さん:そうなんですが、ずっとこんにゃくを売る仕事をしてきたなかで、こんにゃくは味に大きな違いがありません。価格の安いものが売れ筋商品になるということが多いのです。結局こんにゃくは安いものが売れる市場なんです。

しかし、炭酸水は味の良し悪しが商品の価値を決めるんです。だって、炭酸水を作ってから、わざわざ「まずい」と伝えてくるお客様がいたくらいなんですから。

でも、これがうれしくてうれしくて、絶対に横浜で業務用の炭酸飲料で勝負しようと決めたんです。最終的には、大手飲料メーカーに横浜では勝負に勝てないと言われるようにがんばろうと心に決めました。

-では、どのような手で勝負に出たんですか?

坪井さん:2011年のワールドカクテルチャンピオンシップで優勝した世界トップクラスのバーテンダーである山田高史さんが横浜でバーをやっているので、彼に会いに行って「横浜の業務用炭酸飲料でナンバーワンになりたいから、山田さんが最高だと思う炭酸飲料を教えてくれ」と直談判に行きました。そしたら、彼も「そういことがやりたかった」と言ってくれたのでいっしょに新しいオリジナルの炭酸飲料の開発を始めることになりました。

-すごい行動力ですね!

坪井さん:当時は、アメリカのスパイもののドラマや映画にはまっていたので、自分をその主人公たちに重ねて行動していました。自分の名前を「マイケルウェスティン」だと思っていましたからね(笑)。

-なんか、そういうのわかる気がします!ドラマを見て影響されて気が大きくなるってことありますよね!では、それからすぐに納得いく商品ができたんですか?

坪井さん:それがね、山田さんはすごくこだわりの強い方なんです。だからこそ、世界一にまで上り詰めることができたと思うのですが。

作っても作ってもOKをもらえないんですよ。だって、ストップウォッチを持って20分後に炭酸が切れたらダメとか、個人的には炭酸が強くてグラスを口に近づけると炭酸が顔にあたるくらいがおいしいと思っていましたが、それは下品だと言われたりしてね。

今は仲良しですが、その当時は本当にたくさんの意見交換を重ねてスタートから一年弱たってやっと商品が完成した日には、口をきかなくなっていましたね(笑)。

-とても、いいお話じゃないですか!横浜で作られた完全オリジナルの炭酸飲料ができたんですね。

坪井さん:いろいろありましたが、とてもいい経験でしたね。

 

■横浜から世界へ挑戦したい

どんな困難もポジティブに乗り越えてきた坪井社長

-坪井さんの今後のビジョンについて教えてください。

坪井さん:まず、横浜をしっかりと盛り上げていきたいですね。この考えは私の基盤の考えです。

そして、横浜からメイドインジャパンのすばらしい日本ブランドを世界に発信していきたいですね。だから、オリツルサイダーのパッケージも日本をイメージできる折り鶴のデザインにしています。

このデザインはすべて私が作っているのですが、パッケージの英語はインターネットの翻訳機能を使って書いているので、英語がわかる人が読むとおかしな英語になっているようですよ(笑)。

オリツルサイダーのデザインはすべて坪井社長がデザインしている。

今は、いろいろ大変な時期ではありますが、そんなときこそ小さくならずに大きな夢を描いていきたいですね。

-坪井さんのお話をお聞きして感じましたが、とても楽しそうにお話しされるのでこちらも元気になりました。

坪井さん:いろいろ回りくどく言いましたが、要は楽しいと思える仕事を続けていきたいんですね(笑)。

-そうですね!今日はありがとうございました。暑いのでサイダーください!

 

編集部のひとこと

ライター

せいくん

坪井さんとお話をしていると、こちらまでとても元気になれる不思議な雰囲気をもっている方でした。横浜の地サイダー復活の裏にあるたくさんの問題もきっと笑って乗り越えて来られたんだろうと思います。

このインタビュー記事を通して、「これからも大きな夢を描いて、楽しく生きて行こう」という坪井さんのメッセージが少しでも多くの方に届くといいなと思っています。

横浜のバーに行く機会があったら、ぜひオリツルサイダーで作ったお酒をどうぞ!

編集部メンバー

編集長
かなさん

ふたりの子どもがいるワーママ。お酒が好き。とにかく声が大きい。

ライター
せいくん

家事全般、特に料理が得意な新人ライター。気も声も小さい。

ライター
ゆめちゃん

好奇心旺盛。食べ歩きや女子会が大好き。いつもTシャツ。

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