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輝く男性インタビュー

発行部数世界一のフリーペーパーとしてギネス認定された「ぱど」を創った倉橋泰(くらはしひろし)さんの挑戦の日々について聞いてきました!

株式会社ぱどのファウンダー倉橋泰さん

株式会社ぱどの創業者 倉橋泰さん

2002年に発行部数で世界一となり、ギネスブックに認定された横浜発フリーペーパーぱどを創った、株式会社ぱどの倉橋泰さんに創業の地 横浜でお話をお聞きしてきました。

安定した大企業に勤めていた倉橋さんはなぜ起業という道を選んだのか。なぜ、フリーペーパーを創ろうと思ったのか。なぜ、横浜からスタートしたのか。世界一になるまでの苦楽のお話など、話題は尽きません!

倉橋さんの挑戦の物語をお楽しみください!

聞き手:たいせつじかん編集部

■アメリカでのできごとが着想のきっかけ

創業前のお話をする倉橋さん

創業前のお話をする倉橋さん

ー世界一のフリーペーパー「ぱど」を創った男の挑戦の日々についてのお話をお聞きしたいとずっと思っておりました。オファーを受けていただきありがとうございました。

倉橋さん:いやいや、そんなにおもしろいお話ではないですがなんでも聞いてください。よろしくお願いします。

ーでは、株式会社ぱどを創業するまでのお話をお聞かせください!

倉橋さん:大学を卒業して荏原製作所というポンプや送風機などを作る会社に就職したんです。そして、1983年にアメリカで勉強してこいという辞令が出て、アメリカで2年間はたらくことになったんです。アメリカでぱど創業に影響を与える3つの気づきがありました。

ひとつ目ですが、午前中に複数名でテーブルを囲んでMTGをし、みんなでランチ休憩をとりました。その同僚のうちのひとりが休憩の終わりに、当時のボスの部屋に呼び出されたんです。それから少しして、顔を真っ赤にしたその同僚が荷物をまとめて帰ってしまったんです。

何があったのか分からずにいる私に、別の同僚が「彼はクビになったのよ」と言いました。私は、びっくり仰天ですよ。午前中はいっしょにテーブルを囲んでMTGをしていた同僚が、お昼明けにはクビになってしまうんですからね。

このことは、私の仕事観を変えたんだと思います。日本でも数年遅れてこのようなことは起きるのではないか。そのときに、自分ひとりでも食べていけるようになっていたいと思うようになりました。

ふたつ目は、「ペニーセイバー」というフリーペーパーとの出会いです。かなり分厚い冊子なのですが、内容は近所のガレージセールの告知や、お店のクーポンなど雑多な情報だったのですが、自分が住んでいるエリアのさまざまな情報を無料で知ることができるので、私自身がとても活用していました。

3つ目は、そのころすでにアメリカでは新聞離れが進んでいたんです。しかし、クーポンなど地域の情報が掲載される日だけ買うということを友人から聞いていたので、これも日本に起こりうることなのかなと考えていました。

アメリカの生活を通じて、感じていたようなことにフリーペーパー「ぱど」の着想のきっかけがありました。

ーなるほど、アメリカでの生活で実感したことが根本になるんですね。

倉橋さん:そうなんですよね。そして、私が日本に帰国するタイミングの少し前にプラザ合意があって、輸出を中心としていた日本の製造業は大きな変革期を向かえるんですね。

各社ともに新規事業を立ち上げようという動きの中で、荏原製作所では私が新規事業部の社員一号に任命されました。

なんでもいいと言われたので、「ぱど」の事業案を提案しました。

ー製造業と広告を中心としたフリーペーパーはまったく親和性がいですが、OKだったんですか?

倉橋さん:いえいえ、当然お蔵入りですよ(笑)

でも私は、当時誰にでも「かみつく」という意味で「スピッツ」というあだ名をつけられているほど、いろいろな人と積極的に意見を交換しました。

ー意見交換ではなくケンカをしたんじゃないんですか?(笑)

倉橋さん:意見交換です!それでもなかなか、話が進まないので見本誌を作ってマーケティングリサーチをすることにしました。

その結果が7割以上の人から好反応を得ることができたので、その結果をもとにすすめようとしましたけど、それでも保留にされたのでもう完全に腐っていましたね。

ー大きな会社ですから、まったく畑違いの新規事業はむずかしいですよね。

倉橋さん:そうですね。でもね、そのあと私のメンターになる副社長と知り合うチャンスがあったんです。すごくおもしろいおじさんでね、あの人がいなかったら無理だったでしょうね。

ー救世主が現れるんですね!

■出会いが扉を開く

ぱどの紙面

ぱどの紙面

ー副社長との出会いのきっかけを教えてください。

倉橋さん:私があまりにも腐っているから社長室長にごはんをごちそうになることになったんです。その日に社長室長とふたりで歩いていると向こうから副社長が偶然歩いていらしたんですよ。

そのときに、社長室長を介して彼を紹介してもらったんです。このチャンスを逃すまいと彼に会社に対する憤りをぶつけたんです。

「新規事業やれって言われたから企画してがんばっているのに、いっこうに決断してくれない。どうなんているんですか。やっていられない。」ってまくしたてました。

ーこれもケンカではなく意見交換ですね(笑)

倉橋さん:当然です!(笑)

意見交換のかいもあって、副社長が社長へ直接プレゼンテーションするチャンスを作ることを約束してくれたんです。

ー遂に扉が開いたんですね!

倉橋さん:開いただけです。必ず「なんで荏原製作所がこんなことやる必要があるんだ」と聞かれると思っていましたので、この疑問を超える一手が必要でしたね。

ー実際に社長プレゼンのときに言われましたか?

倉橋さん:聞かれましたね!プレゼン後の開口一番でした!きたきたって思いましたね。

ーどういう一手で跳ね返したんですか?

倉橋さん:アメリカで見たこと感じたことを伝えました。絶対にこういうサービスが必要であると力説しました。

そしたら社長が私がアメリカにいたころのアメリカ人の上司に電話をして、私が言っていることが本当であるかを確認したんですね。

私が言っていることが本当だと知って、荏原製作所以外にこの道のプロを株主として連れてきたらOKと条件付きで事業化のOKを取り付けました。

■いつも土壇場、つねに修羅場、まさに正念場

スローガンについて語る倉橋さん

ーやっとの思いで、荏原製作所の新規事業としてぱどがスタートするんですね。

倉橋さん:とはいっても、株主を探すということはお金を出してくれる会社を探すということですからね。とにかく手当たり次第に探しましたね。そして、大手の印刷会社や印刷機器の会社など複数社が手を挙げてくれました。みなさん、荏原製作所とのパイプができることや、ぱどが成功すれば印刷物が増えるということに期待しくれたと思います。

ーうまくあつまったんですね!

倉橋さん:それも駄目だったんですよ。せっかく集めたのに、先方の要望にこたえられなかったり、荏原製作所側からお断りをしたりとあって。結局大手印刷会社しか残らなかったんです。

ーあらら、なかなかうまくいきませんね。

倉橋さん:もうこのときには、さすがに私もあきらめて副社長に「もうやめます」って言いにいきました。

でも、また副社長が動いてくれて、電話一本で3,000万円用意してくれたんです。

ーすごいですね!また副社長に助けられるんですね!

倉橋さん:そうなんですよ。それでやっと始められました。

ー本当にやっとですね。

倉橋さん:私はよく言う言葉が、「いつも土壇場、つねに修羅場、まさに正念場」なんです。スタートする前からいろいろなことがありましたら、この言葉は何かある度に口にするんです。

ー倉橋さんの経験から絞りだされた言葉ですね!

■赤字事業から上場会社へそしてギネス記録を作るまで

ぱどの発展期のころを語る倉橋さん

ーでは実際に事業がスタートしてからのお話をお聞かせください!

倉橋さん:マーケティングリサーチの結果もよかったのでスタートができれば、うまくいくだろうという気がしていたんです。

しかし、実際にスタートをしてみるとそうはいきませんでした。「ぱど」に広告を出してくれる企業を増やすことが必要なのですが、実績がないうちはなかなか広告主を集めることに苦労したんです。

黒字になるまでに2年半もかかりました。

そもそも「ぱど」は広告をメインの収益としているのに「ぱど」自体の広告を出せていなかったです。

それまでは、私は編集もやれば営業もやっていました。要は気になってしまってなんでもやってしまっていたんですね。でも、これをやめて私は広告塔に専念しようとおもいました。

このあたりから徐々にうまくいくようになっていきました。

-そこからは一気に事業を拡大され、ぱどの株式上場まで果たされるわけですよね。

倉橋さん:それがね、今度は荏原製作所から「『ぱど』をやめる」と言われたんです。「ぱど」をOKしてくれた役員陣が刷新されたことが要因でした。

ーえっ、なんでこんなにいろいろあるんですかね…

倉橋さん:さて、これはどうしようかとなったんですが、結局は自分で買い取ったんです。今では経営者が会社の株式を買い取ることをMBO(マネジメントバイアウト)というのですが、おそらく日本では私が第一号だと思います。

その後は、荏原製作所という大きい後ろ盾がなくなったことで取引先から取引条件を厳しくされるなどの困難を乗り越えてどうにかこうにか株式上場までたどり着けました。

ぱどは2002年に発行部数世界一のフリーペーパーとしてギネス認定もされているんですよね?どういう経緯でなんですか?

倉橋さん:1,000万部いけばギネスだったので、営業現場の士気を高めるために思い付きで宣言しました(爆笑)

まだ、発行部数が150万部のときに宣言したので、みんな耳を疑ったでしょうね。

でもね、どんどん発行部数は伸びていきましたよ。みんな大変だったと思うけど楽しんでやってくれていたと思います。だって、どんどん伸びましたからね。そういう時は大変だけど楽しいものです。

ー最後にお聞きしたいのですが、とても大変思いをされたぱど創業だったと思いますが、生まれ変わってもまた起業されると思いますか?

倉橋さん:すると思いますよ。そもそも私は祖父が起業家で父は典型的なサラリーマンでしたが、祖父の影響が大きいのだと思いますね。

でも、時代が違うので同じことはやりませんよ。そのときにいちばん新しいことに挑戦すると思います!

ー倉橋さん今日はありがとうございました。

編集部のひとこと

ライター

せいくん

神奈川県内にお住まいの方であれば、ご自宅にぱどが届けらえるよという方も多いと思いますが、横浜発祥のフリーペーパー「ぱど」はたくさんの困難を乗り越えて今に至っているというお話はとてもエキサイティングでした。

ここまで大きなサービスに育て上げられた倉橋さんのスローガンは「いつも土壇場、つねに修羅場、まさに正念場」です。たくさんの困難を乗り越えた倉橋さんのお話をうかがって、「どんなことでも大変だけど乗り越えられるからやってみな」と励まされたような気持ちになりました。

編集部メンバー

編集長
かなさん

ふたりの子どもがいるワーママ。お酒が好き。とにかく声が大きい。

ライター
せいくん

家事全般、特に料理が得意な新人ライター。気も声も小さい。

ライター
ゆめちゃん

好奇心旺盛。食べ歩きや女子会が大好き。いつもTシャツ。

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