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お出かけスポットインタビュー

衰えることを知らない人気を誇る岡本太郎とはどんな人だったのか。川崎市岡本太郎美術館館長 北條秀衛(ほうじょうひでえ)さんに聞いてきました!

川崎市岡本太郎美術館館長 北條秀衛(ほうじょうひでえ)さん

岡本太郎美術館のシンボルタワー「母の塔」と北條秀衛館長

没後20年以上たった今でも、多くの人から支持をえる、その言葉で勇気を与え続けている日本を代表する画家 岡本太郎。彼が生前に残した作品のうち1800点以上の作品を保管、展示する美術館が、川崎市の生田緑地にある川崎市岡本太郎美術館です。

岡本太郎をよく知らないという人でも、彼の残した作品は何度も目にされていると思います。その強烈な個性と破天荒な言動で注目を集めた岡本太郎とはどのような人であったのか、館長の北條さんにうかがってきました。

私は、岡本太郎をよく知りませんでしたがこのインタビューのあとに大好きになりました。美術館レポートもいっしょにお届けます。

ぜひ、お楽しみください。

聞き手:たいせつじかん編集部

■川崎市は岡本太郎とゆかりの深い地

岡本太郎さんについて語る北條さん

岡本太郎と川崎市の関係性について語る北條さん

ーなぜ、川崎市に岡本太郎美術館があるのでしょうか?

北條さん:太郎さんのお母さまであるかの子さんのご実家が川崎市高津にあり、太郎さんはかの子さんのご実家で生まれたので川崎市は太郎さんの出生地なんです。

太郎さんがご存命の頃に、岡本かの子さんの生誕100年のイベントを川崎市市民ミュージアムで開催した際にも太郎さんはいらっしゃって子どものころに川崎市で過ごしたことをお話されたりしていました。

その由縁で太郎さんから生前に川崎市に作品を寄贈いただくことになりました。

当時の時価で300億円くらいの価値のある作品を1,800点も寄贈いただきましたので、この機会に美術館を造ろうということになり今に至るわけです。

ー300億円分の価値のある作品を寄贈するってすごいですね!

北條さん:実際に太郎さんは、ご自身の作品を死後どうするかをずっとお考えであったとは思います。作品を多数持ったままだと、仮に亡くなった時に膨大な相続税がかかってしまうというような現実的なことも含めて考えていて、寄贈という形を選ばれたのだと思います。

ーなるほど。そのような背景から、ゆかりのある川崎市に寄贈され、その作品を保管、展示するためにこの美術館がつくられんですね。

■両親の影響を強く受けた岡本太郎

ー不勉強で恐縮ですが、あまり岡本太郎さんのことを知らないですが、どのような人であったのかを教えていただきたいです。

北條さん:太郎さんを語るうえでは、まずご両親のお話からしたいと思います。

太郎さんのお父さまは、とても人気のあった漫画家の岡本一平さんです。当時の人気はすごかったようです。手塚治虫さんや藤子不二雄さんと同じような人気であっただろうと思います。また、一平さんのお父さまやおじいさまも非常に有名な書家でした。

そして、お母さまのかの子さんも、才能あふれる方で、小説を書いたり、短歌を詠んだり、宗教学者になったりと多方面で才能を発揮されました。

かの子さんのご実家は、病院や銀行などを経営されていて、相当な資産家であったようですので、天真爛漫に育ったであろうことが想像できますね。

この両親の間にうまれた子どもが太郎さんです。太郎さんは小さい頃から家族3人で芸術について話し、芸術に囲まれた生活をしていたのであろうと思います。

ーかなり破天荒ご両親であったようですね。

北條さん:そうですね。しかし、太郎さんはかの子さんのことが大好きだったようですので、親子関係は良好であったんだと思います。親子の絆の深さが垣間見える書籍「母の手紙」を読んでいただけるとより深くご理解いただけると思います。

ー太郎さんはどのような少年時代をすごされていたんでしょうか?

北條さん:どうやら今でいう不登校を繰り返していたようですね。しかし、その後は慶応幼稚舎に入り、大学は東京芸術大学(旧東京美術大学)に入学していますから、芸術に対する意識の高い両親の間で充実した少年時代を過ごしたんだろうと思います。

ー絵はいつからかれていたんでしょうか?

岡本太郎《敗惨の嘆き》1925年水彩・紙

敗惨の嘆き

北條さん:残っているものでは、13歳の時に描いたと言われている「敗惨の嘆き」という作品がありますので、その頃にはすでに絵を描いていたと思います。この絵はカッターというボートのレースで負けたことの悲しみを描いた作品と言われています。

本格的に、芸術に取り組みだすのはパリに渡ってからですね。パリには、一平さんが取材に行くことになり、家族3人で渡仏することになります。

■フランスで過ごした10年間とは

美術館にある太郎さんの写真

美術館内の岡本太郎さんの写真

ー太郎さんのフランスでの日々はどのようなものであったのでしょうか?

北條さん:ご両親は先に帰国されるのですが、太郎さんはフランスで10年間過ごしています。かの子さんは、太郎さんが日本に帰国する前に亡くなってしまうのでフランスでの別れが最期の別れとなってしまいます。

また、私が太郎さんはすごい人だったのだなと思うところのひとつは、まずパリ大学でフランス語を学んだことです。

同時期に、渡仏していた日本人画家はいたようですがみんな日本人で固まってフランス語を学ぼうとしない人が多かったようです。しかし、太郎さんは違ったんですね。まず、フランス語を学び、フランス人の芸術家たちと積極的にコミュニケーションを取ったんです。美術館にもフランス語を話す太郎さんの肉声が残っているのでぜひ聞いていただきたいですが、流暢なフランス語をしゃべるんですね。やはり知的にもすぐれていたんでしょうね。

さらにその後は、民族学を学ぶのです。なぜ、絵を描くのかという疑問を解き明かすためであったと言われています。

ー太郎さんは、芸術を学ぶうえでさまざまな観点からフランスで学んでいたんですね。

岡本太郎《傷ましき腕》1936年1949年再制作油彩・キャンバス

傷ましき腕

北條さん:そうですね。有名な話かもしれませんが、ピカソに出会いいたく感動されて、本格的に絵を描き始めるんです。初期は、リボンをテーマに制作をします。その中に、太郎さんの最高傑作のひとつと言われる「傷ましき腕」があります。

ー初期の作品も多数残されているんですか?

北條さん:ほとんど残っていません。

第二次世界大戦が本格化したことで、太郎さんも帰国するんです。太郎さんのアトリエは青山にあったのですが、初期の作品の多くは戦争の空襲によりほとんど焼けてしまったんです。ですから、今見ることができる「傷ましき腕」は再制作したものなんです。

■岡本太郎の作品はなぜ大衆に支持されたのか

岡本太郎さんの等身大パネル

太郎さんの等身大パネル。破天荒な発言や生き方から大柄な人かと思ってましたが156㎝と当時でも小柄な方であったそうです。

ーパリから帰国後の活躍についてお聞かせください。

北條さん:太郎さんも第二次世界大戦では、中国へ出征しているんです。パリ大学を出ていますが、日本の大学出身ではなかったからなのか、階級は二等兵でした。そのため非常に厳しい軍隊生活であったようです。戦争中の体験談も書籍として残っているのでぜひご覧ください。太郎さんは、エピソードの多い人です。

その後帰国し、川崎市内で美術の先生などをしながらかの子さんの実家で1年半くらい過ごしたようです。このころに描いた作品が「重工業」です。

岡本太郎《重工業》1949年油彩・キャンバス

重工業

ー私たちが知っているものはここからの作品が多くなりますね。

北條さん:そうですね。このころから太郎さんの作品は、マンガチックで非常に鮮やかな色使いになっていきます。

ー太郎さんの作品は、その印象が強いですね。

北條さん:それまでの日本美術とは一線を画す作品が多いんです。並行して、日本の若者たちと現代美術に関する運動を始めます。

その一方で、日本の美術を支えてきたような画壇の人たちから、「デザインができない」とか「色音痴」と非難を浴びるわけです。

そんなこんなで意見の相違があり、太郎さんと日本の画壇の人たちは決定的に関係性が悪くなってしまうんですね。ですから、美術館では太郎さんの絵を飾ったり、販売したりということはほとんどなかったようですね。画壇の人たちへの忖度が働いたのでしょう。

岡本太郎《太陽の塔》1970年

太陽の塔

美術館に展示してもらえないなら屋外に飾れるものをつくろうということで、太郎さんの作品は屋外のモニュメントや壁画も多いです。

 《こどもの樹》1985年

こどもの樹

大阪万博のために造られた太陽の塔もそうですし、銀座に近い数寄屋橋公園にある若い時計台、表参道の近くにある子どもの城にあるこどもの樹などもそうです。みなさんの身の回りでも太郎さんのアートをご覧いただけると思います。

ー画壇と仲が良くなかったということが、太郎さんの作品を大衆に知らしめることの一翼をになっていたという考え方もできるんですね。おもしろいですね。

北條さん:もうひとつ大衆に支持された要因として、太郎さんはあらゆるものをデザインし造りましたし、写真も上手でした。さらにテレビにも出演し、CMにも多く起用されました。とにかくマルチプレイヤーでした。多様な面を持っていたので、さまざまな人に受け入れられたんでしょう。

ー北條さんは、太郎さんの魅力はどんなところにあると感じられていますか?

北條さん:どんなことがあっても、信念がぶれないところです。どんなことにも勇気をもって立ち向かい自分の信念を貫きましたね。

もしかしたら、太郎さんのアート作品自体は、時代とともに古いものになってしまうかもしれません。しかし、常に新しいものに挑み続けた太郎さんの言葉は、どの時代でも新しいことに挑戦する若者には、勇気を与えるのだと思います。

太郎さんは、芸術はうまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならないと言っているんです。描きたいものを描けと言っているんです。

人がどう思うかなんて、どうでもいいと思っているんです。

私は、ここが太郎さんの魅力だと思います。

ーこのあと、美術館を回って太郎さん作品を見てきます!

 今日はありがとうございました!

■岡本太郎美術館の魅力とは

岡本太郎美術館の外観

岡本太郎美術館の外観

▼北條さんにお聞きした岡本太郎美術館の魅力▼

岡本太郎美術館は緑の中にある自然と調和する美術館です。四季折々のさまざまな顔を見せる自然に囲まれていて、自然散策をしながら美術を楽しめます。また、車は入ることができないので、小さいお子さまも安心して楽しんいただけるように設計されています。

また、年に4回企画展を行っています。本当にさまざまな切り口で企画をしていますのでいつ来ても新しい発見のある美術館であると思います。

美術館の中を少しご覧ください!

展示-風景①

展示室の様子

母の塔

美術館のシンボルタワー「母の塔」

太郎さんのカメラ

太郎さんが愛用したカメラ

美術館に展示されている太郎さんの絵

太郎さんの描いた絵。太郎さんは絵を額縁にいれることを嫌ったそうです。

編集部のひとこと

ライター

ゆめちゃん

多様性やダイバーシティという言葉をよく耳にする現代に太郎さんが居たとしたら何というでしょうか。もっと自由にやりたいことをやれというでしょうか。小さいことなんか気にするなといういうでしょうか。

美術館で太郎さんの作品や言葉にふれると、見る人それぞれに違った言葉に聞こえてくるかもしれません。

今年は、開館20周年の節目の年ということで、これまでに開催された60の企画展を抽出し紹介する展示会を開催中です。

この機会にぜひ、岡本太郎のアートに触れてみてはいかがでしょうか!

編集部メンバー

編集長
かなさん

ふたりの子どもがいるワーママ。お酒が好き。とにかく声が大きい。

ライター
せいくん

家事全般、特に料理が得意な新人ライター。気も声も小さい。

ライター
ゆめちゃん

好奇心旺盛。食べ歩きや女子会が大好き。いつもTシャツ。

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